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ロマン・ローラン著 | 豊島与志雄訳
第一巻 曙より抜粋
突然暗い中で、ゴットフリート(*主人公ジャン・クリストフの叔父)が歌いだした。胸の中で響くような朧ろな弱い声で歌った。少し離れると聞こえないくらいの声だった。 しかしそれには心惹かるる誠がこもっていた。声高に考えてるともいえるほどだった。あたかも透明な水を通してのように、その音楽を通して、彼の心の奥底まで読み取られる、ともいえるほどだった。クリストフはかつてそんなふうに歌われるのを聞いたことがなかった。またかつてそんな歌を聞いたことがなかった。ゆるやかな簡単な幼稚な歌であって、重々しい寂しい多少単調な足どりで、決して急ぐことなく進んでいった――長い沈黙を伴って――それからまた行方もかまわず進みだし、夜のうちに消えていった。ごく遠くからやって来るようで、どこへ行くのかわからなかった。その朗らかさの中には惑乱が満ちていた。平和な表面の下には、長い年月の苦悶が眠っていた。クリストフはもう息もつかず、身を動かすこともできないで、感動のあまり冷たくなっていた。歌が終ると、ゴットフリートの方へはい寄った。そして喉をかすらして尋ねた。
「叔父さん!……」
ゴットフリートは答えなかった。
「叔父さん!」と子供はくり返して、彼の膝に両手と頤とをのせた。
ゴットフリートのやさしい声が言った。
「坊や……。」
「それはなんなの、叔父さん! 教えておくれよ。叔父さんが歌ったのはなんなの?」
「知らないよ。」
「なんだか言っておくれよ。」
「知らないよ。歌だよ。」
「叔父さんの歌かい。」
「おれんなもんか、馬鹿な!……古い歌だよ。」
「だれが作ったの?」
「わからないね……。」
「いつできたの?」
「わからないよ……。」
「叔父さんが小さい時分にかい?」
「おれが生まれる前だ、おれのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのまたお父さんが生まれる前……。この歌はいつでもあったんだ。」
「変だね! だれもそんなことを言ってくれなかったよ。」
彼はちょっと考えた。
「叔父さん、まだ他のを知ってるかい?」
「ああ。」
「も一つ歌ってくれない?」
「なぜも一つ歌うんだ? 一つでたくさんだよ。歌いたい時に、歌わなけりゃならない時に、歌うものだ。面白半分に歌っちゃいけない。」
「だって、音楽をこしらえる時には?」
「これは音楽じゃないよ。」
子供は考えこんだ。よくわからなかった。でも彼は説明を求めはしなかった。なるほどそれは、音楽では、他の歌みたいに音楽ではなかった。彼は言った。
「叔父さん、叔父さんはこしらえたことがあるかい?」
「何をさ?」
「歌を。」
「歌? なあにどうしておれにできるもんか。それはこしらえられるもんじゃないよ。」
子供はいつもの論法で言い張った。
「でも、叔父さん、一度はこしらえたに違いないよ。」
ゴットフリートは頑として頭を振った。
「いつでもあったんだ。」
子供は言い進んだ。
「だって、叔父さん、他のを、新しいのを、こしらえることはできないのかい?」
「なぜこしらえるんだ? もうどんなんでもあるんだ。悲しい時のもあれば、嬉しい時のもある。疲れた時のもあれば、遠い家のことを思う時のもある。自分が賤しい罪人だったから、虫けらみたいなつまらない者だったからといって、自分の身が厭になった時のもある。他人が親切にしてくれなかったからといって、泣きたくなったときのもある。天気がいいからといって、そしていつも親切で笑いかけてくださるような神様の大空が見えるからといって、心が楽しくなった時のもある。……どんなんでも、どんなんでもあるんだよ。なんで他のをこしらえる必要があるもんか。」
「偉い人になるためにさ!」と子供は言った。彼は祖父の教訓とあどけない夢想とに頭が満されていた。
ゴットフリートは穏かな笑いをちょっと見せた。クリストフは少しむっとして尋ねた。
「なぜ笑うんだい!」
ゴットフリートは言った。
「ああおれは、おれはつまらない者さ。」
そして子供の頭をやさしくなでながら尋ねた。
「じゃあお前は偉い人になりたいんだな。」
「そうだよ。」とクリストフは得意げに答えた。
彼はゴットフリートからほめられることと信じていた。しかしゴットフリートはこう答え返した。
「なんのために?」
クリストフはまごついた。考えてから言った。
「りっぱな歌をこしらえるためだよ!」
ゴットフリートはまた笑った。そして言った。
「偉い人になるために歌をこしらえたいんだね、そして歌をこしらえるために偉い人になりたいんだね。お前は、尻尾を追っかけてぐるぐる回ってる犬みたいだ。」
クリストフはひどく癪にさわった。他の時なら、いつも嘲弄している叔父からあべこべに嘲弄されるのに、我慢ができなかったかもしれない。そしてまた同時に、理屈で自分を困らすほどゴットフリートが利口であろうとは、かつて思いも寄らないことだった。彼はやり返してやるべき議論か悪口かを考えたが、何も見当たらなかった。ゴットフリートはつづけて言った。
「おまえがもし、ここからコブレンツまでもあるほど偉大な人になったにしろ、たった一つの歌もとうていできやすまい。」
クリストフはむっとした。
「もしこしらえたいと思ったら!……」
「思えば思うほどできないもんだ。歌をこしらえるには、あのとおりでなけりゃいけない。お聴きよ……。」
月は、野の向うに、丸く輝いてのぼっていた。銀色の靄が、地面に低く、また鏡のような水の上に、漂っていた。蛙が語り合っていた。牧場の中には、蟇の鳴く笛の音の旋律が聞こえていた。蟋蟀の鋭い顫音は、星の閃きに答えてるかと思われた。風は静かに、榛の木の枝を戦がしていた。河の上方の丘から、鶯のか弱い歌がおりてきた。
「何を歌う必要があるのか?」とゴットフリートは長い沈黙の後にほっと息をして言った――(自分自身に向かって言ってるのかクリストフに向かって言ってるのかわからなかった)――「お前がどんなものをこしらえようと、あれらの方がいっそうりっぱに歌ってるじゃないか。」
クリストフは幾度もそれら夜の音を聞いていた。しかしかつてこんなふうに聞いたことはなかった。ほんとうだ、何を人は歌う必要があるのか?……彼は心がやさしみと悲しみとでいっぱいになってくるのを感じた。牧場を、河を、空を、親しい星を、胸にかき抱きたかった。
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